第一夜で、アドラー心理学は勇気の心理学である。
というところまで分かりました。
人がなかなか変われないのは、変わろうとする勇気が足りない。
変わりたいけど、変われない。
と同じように、
自分のことを好きになりたいけど、好きになれない。
という人がいます。
自分を好きになることは、自己肯定感を上げるうえでも非常に大切なこと。
第二夜では、なぜ自分を好きになれないのか?
そこから話がスタートです。
なぜ自分のことが嫌いなのか
自分のことを評価するときに、短所ばかり目についてしまうのは、
あなたが
「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているから。
この考え方も目的論から導き出されています。
自分が好きになれない。
↓
こんな人間とは誰も付き合いたいと思わないだろう(関わりたくないだろう)
と考えれば、
人を避ける理由になる。
すると、対人関係の中で傷つく機会も減る。
つまり、「自分を好きにならない」目的とは、
「他者との関係の中で傷つかないこと」にあると。
他者から否定され、
小馬鹿にされ、
拒絶され、
心に深い傷を負うことを恐れている。
そんな事態に巻き込まれるくらいなら、
最初から誰とも関わり合いを持たない方がましだと思っている。
たとえ傷ついたとしても、
「こんな自分だからしょうがない」と、あきらめがつく。
当たり前ですが、
誰も対人関係の中で傷つきたいと思う人はいないでしょう。
しかし、社会の中で生きていく上では、
大なり小なり傷つくものだし、
自分も誰かを傷つけているかもしれません。
自分が好きになれない理由は、「対人関係を避ける」という目的があったのです。
本書で、アドラーはすべての悩みは「対人関係の悩み」であると断言しています。
確かに考えてみると、
孤独を感じるのも
長所や短所が分かるのも
妬みや嫉みが生まれるのも
優劣が付くのも
今が幸せ、不幸と判断するのも
すべて他者がいて、初めて認識することです。
生まれたときに、自分以外の人間が存在していなければ、
「孤独」という感情すら生まれない。
「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただ一人で生きるしかない。」
しかし現実にはそんなことは不可能です。
劣等感は、主観的な思い込み
劣等感は大なり小なり皆さん持っているのではないでしょうか?
この「劣等感」というのは、
他人が指摘して生まれるものではなく、
自分の思い込みで生まれるものです。
言い換えると、
「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」で生まれる。
例えば、身長が155センチの人が、
自分は背が低いからモテないんだ。
あと10センチ、20センチでも身長が高ければ、
もっと楽しい人生が待っているのではないか。
と、身長が低いことに悩んでいる(劣等感を持っている)とします。
ただ、周りから、
「威圧感がなく話しやすい」
「人をくつろがせる」
と言われれば、
身長が低いこと=悪いことではない
と思えるかもしれません。
そう判断するのも自分(主観)です。
長所と見るのか、短所と見るのか。
たとえ、短所ととらえても、
劣等感を持っていても、
それをバネに、より理想や目標に向けて頑張っていくこともできます。
これも自分で選択して、行動するかどうかです。
本書でも、「劣等感を持つこと自体は悪いことではない」といっています。
劣等感が生まれるのは、
理想の自分になりたい!
向上したい!
という思いがあるけど、
まだ、理想に到達できていないからだと。
この道何十年のプロの料理人でも、志が高ければ、
「まだまだ未熟だ」
「もっと技術を磨かなければ」
と思うでしょう。
これはある種の劣等感を抱いている状態です。
ただ、周りからすれば向上心の高い人だと思われます。
アドラーは、「劣等感というのは、
正常な努力と成長への刺激になるもの。」
と語っています。
ただ、劣等感があまりにも強すぎると、
ネガティブになって
「どうせ自分なんか・・・」
と思ってしまいます。
こうなってしまうと周りにも迷惑をかけてしまうので注意です!
劣等感を言い訳にして、
「自分は○○だから、●●できないんだ。」
と考える人は、
単純に、
一歩前に踏み出すことが怖い。
また、現実的な努力をしたくない。
今の楽しみを犠牲にしてまで、変わりたくない。
つまり、
ライフスタイルを変える”勇気”を持ち合わせていない。
ということです。
今、自分が持っている”劣等感”は
理想の自分に近づくためのものなのか。
ライフスタイルを変えたくない言い訳としてのものなのか。
「劣等感」の存在を正しく認識することで、
勇気をもって第一歩が踏み出せるかもしれません。
では、どうすれば”勇気”を持つことができるのか?
話は第三夜に続きます。。。
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